飲み会

近況

サークル2個の合宿、筋トレ、バイト、勉強、、、

平均的大学生ですね。充実しながらも物足りない日々。

つくづく生産性の無さを自虐することが多いです。

無駄に飲み会開いてはまだあまり美味しくない度数の高い酒を飲んで潰れて死ぬ思いをし、また飲み会、、、 アホかw

まあでも個人でやる分にはいいんじゃないかなと思います。別に介抱とかされない限りは人に迷惑かけるわけじゃないからね。

ですがそれが大きくなると話は別で、他者への配慮も必要になります。

その上で僕が思うのは、飲みの「コール」ってある程度多様性ある団体ではやっちゃいけんくね?という事です。

正直僕自身はお酒が好きなので、好きで飲みたい人らとそれをするのは問題ないのですが、強要になると話は別だと思います。

それは身体的にアルコール耐性がない人に限らず、乗り気じゃない人、そういう場が苦手な人も対象になると思います。

飲酒して気分が高揚してそれを周りにシェアしたい気持ちはわかりますが、相手方が同じような気持ちかどうかはわからない、という事は僕自身も気を付けていかなければと思うこの頃です。

人、ヒト

「人間はポリス的動物である」 

これはアリストテレスの言葉です。

高校倫理程度の知識で解釈するとつまり、人間には社会性があって理性に基づいて生きる動物である、と私はこの言葉を理解しています。

この考えは現代社会にも十分通用すると思い、仮にこう言う人間像を「理性的人間」とします。

反対に、人間が動物の一種であるという部分に焦点をあて、動物のように本能に従う人間を「本能的人間」としましょう。

 

果たしてこの2つ、どちらがより優れていると考えるべきなのか。

 

一般的に考えれば、理性は本能に優越し、本能を抑制するものであります。

つまり「理性的人間」こそ、「本能的人間」に優越するのではないか?

人間の文明、文化を成し得たのは言うまでもなく「理性」であり、このパラダイムにたつとそもそもこうして二項対立でどちらが優位かを考えていること自体が「理性」なのではないかという事も思ったりします。

まあこんな感じで、「理性的人間」が優れているという事については異論はないのですが、少し違和感があります。

 

そもそも二項対立がおかしいのではないか?(H越教授)

 

そこで私は「理性的人間」という型をベースに、本能的要素も取り入れていく事が動物としての生、人間としての生を同時に豊かにしていくのではないか、と思うのです。

結果的にこの結論で私は落ち着いたのですが、この抽象論をどうやって具現化するかイロイロ考え、辿り着いたのが、とりあえず筋トレをするという事です。(?)

私の発想

①大学で勉強してるんだから理性はあるでしょ。(浅はか)

②本能→動物的なもの(浅はか)

③動物→筋肉やべえ→筋トレすればよくね⁉(浅はか)

つまりまあこういう事です。

みなさん、筋トレしましょう!(洗脳)

 

ではでは

ブログというか日記というか

自己紹介

・京都在住

・大学2回生

・法学部

・スポーツ好き

 日記としてはてなブログを使いたいと思っているので、あまりこの記事を見る人はいないかと思いますが、一応これを書いているのがこういう立場であることを知ってほしく自己紹介を置いておきました。

 今回このようなブログを開設した理由

①今の自分の考えを何かしらの媒体に残しておきたい

Twitterの日記アカウントを作ろうと思ったが文字制限がある

③暇だった

④カフェとか行ってPC使ってブログを書くとかいうかっこいいことしてみたかった

といったように段々低次の欲求になっていますが、主にこのような理由です。

自己紹介・開設の理由も示したので、徒然なるままに日記を書いていこうと思います。

 

私はつい最近まで帰省をしていました。旧友と遊び呑むのが帰省の主な目的なのですが、そこで思ったのがやはり皆大人になっている、むしろ大人に「ならなければならない」という事を自覚し始めているのかなぁという印象です。私は浪人した身なので、現役で大学に合格した友人よりも1年遅れています。彼らは現在絶賛就活中で、インターンシップなどに精を出している中、私だけがのほほんと生きている(将来について考えていない)ようでした。おそらく彼らのほとんどが就職して社会の中で生きていくのでしょう。そうすることが当然であると教育され、社会の利益を享受するためにも、普通に就職して働くというのは当たり前です。しかし、やはり話していると、「働きたくない」「ずっと学生でいたい」などと考えている人が多いようです。私も同様に、働きたくないという感情が強いです。「働く」ということについてネガティブなイメージを持ちがちである(少なくとも私の周りの)学生としては、よっぽどの目的意識や動機といった刺激がないと「働く」というものは無味乾燥、いわゆる「社会の歯車」の一員になる、というイメージがあります。そのような刺激が無いうちは、「働く」という事、つまりは社会の一員になることはできないと私は考えています。しかし、社会の一員にならないという事は、社会の利益や福祉を受けられない事を意味し、ひいては文化的な生活の喪失とほぼ同義ではないかと思います。そうであるので、何とか「働く」という事に刺激を見出そうとして、視野にすら入れていなかった法科大学院への進学(弁護士とかかっこよくね?みたいな動機)を考えはじめているのですが、それには何か違和感があります。なぜなら、動機というものは自らのうちなる意思から生じ、それによって目的が定まるものであるというのに、私は、弁護士になるという目的を定め、それに動機付けを行って、目的の正当化を図ろうとしているからです。もちろん、動機が内なる意思から生じるべきであるという考えは理想論であり、多くの人は動機の後付けを行っていると思います。しかし、私はモラトリアムの真っ只中にいる人間としてあくまで自由意思を持った人間の理想的な内なる動機による職業選択をとりあえずは図ろうと考えています。(まあどうせそんな動機など見つからず周りに流されながら就活して普通に働くんだろうけどね)書いていることもめちゃくちゃでここまで読んでいる人もいないと思いますがこれが帰省の時(というか最近)私が考えていることです。外観からすれば、ただ働きたくないだけの怠惰な学生ですが、その思うところイロイロ...といったところでしょうか。とりあえずこんな感じで書いていくのでよろしくです。

ではでは。