ゆとリーマンの徒然日記

主に海外機会に関する事を書きます。

2020年海外記#1 〜ルワンダで私も考えた〜 

1.ルワンダとの出会い

 

私がルワンダに興味を持ったのは、確か高校3年の政経の授業だったと思う。

 

おそらく進研マーク模試やり直しの解説。

 

「...戦後の国際紛争についてはユーゴスラビア関係、チェチェン紛争ルワンダ内戦について覚えておくとテストで点が取れるぞー。じゃあ次の問題。」

 

センター試験でも、「国際紛争」は特筆して覚えておくべき分野ではないため、「ルワンダ」はプラスアルファの内容としてちょっと言及されただけだった。

 

その時何となく資料集を見ていると、目に入ったページ。「世界の民族問題」。

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政経の資料集にあった世界地図。ルワンダとのファーストコンタクト。

 

「1994年ルワンダ虐殺ではフツ族によって約100万人のツチ族が虐殺されるなど...」

 

その文章に書いてある事実に戦慄したことを覚えている。

 

私が生まれる2年前にアフリカではわずか100日間で100万人が殺されたという事実。

 

そしてそれが「テストの選択肢」の1つとして消化されかけていたという事。

 

これが、私とルワンダのファーストコンタクトだった。

 

 

2.分析対象としての「ルワンダ内戦」

 

その後大学に進学した私は、どちらかというと消極的な理由で国際政治を専門とした。

 

法学部であるが法律が苦手で、かといって何か別のことをやりたいわけでもない。「国際政治」は何だか響きがカッコいいし、最近海外に行く事も多いからこれを専門にしてみようかな。

 

そのくらいの気持ち。

 

そこで再びこの国と出会った。

 

国際連合国際法の限界」の側面として出てきた「ルワンダ内戦」。

 

スーダンソマリアらと並んで、「防げなかったアフリカの民族紛争のお話」としてまとめられていたルワンダを見て、私は高校時代に感じたものと近い違和感を覚えた。

 

このような内戦を、「分析対象」として机の上で消化するだけで自分は良いのだろうか?

 

調べるとルワンダは、内戦後「アフリカの奇跡」と呼ばれるほどの経済発展と治安回復を果たしているらしい。

 

是非足が動くうちに、ルワンダを訪れ、現地感覚を味わい自分が何を感じるか試したい。

 

こうして、「大学卒業までのルワンダ訪問」が目標となった。

 

 

3. ついに叶ったルワンダ訪問 

 

ルワンダに行きたいという気持ちを持ちつつも、「アフリカ」という事で躊躇していたのだが、ちょうどその時に「アフリカに行きたい」という同じ気概のある後輩を見つけた。

 

名前をヒライワと言うその後輩は、エチオピアにコーヒーを飲みに行きたいと言っていた。

 

コーヒーのためにアフリカに行くことを決意した彼の(阿呆のように)真っ直ぐな心に私は感動し、僭越ながらその気持ちに乗っかる形で、ノリでアフリカ行きの航空券をとった。

 

もちろん学生なのでお金は無い。カ○ール航空やエ○レーツ航空で往復20万弱など持っての他だ。

 

私とヒライワはこれまでのLCC検索経験を駆使し、バンコクからムンバイ乗換でのルワンダ入国を目指した。

 

「大阪⇨バンコク⇨ムンバイ⇨キガリ

 

ムンバイ乗換のキツさは筆舌に尽くし難いものであったが、ここでは本旨と逸れるので割愛させて頂く。

 

とにもかくにも私達はルワンダに入国することができた。(前置きが長くて申し訳ない)

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ムンバイで読破した本。中村さんの国際協力についての鋭い実体験がある。

 

 

4.「キガリ虐殺記念館」〜虐殺の歴史を訪ねて〜

 

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千の丘の国、ルワンダ

ルワンダでの目的は主に3つ。

日本食レストラン「KISEKI」

コンゴとの国境にあるコーヒーファーム

ルワンダ虐殺に関する記念館訪問・現地感覚を知る。

 

この1つ1つに私が大きく心を動かされた事は言うまでもないが、一重に私の訥弁の成すところで、3つの思い出をうまく表すことができないことを鑑み、私が「ルワンダ」に興味を持った理由と直接重なる「ルワンダ虐殺」に関して書いていきたいと思う。

 

滞在中に私たちが訪れたのは、ルワンダの首都・キガリの虐殺記念館だった。

 

ルワンダにはキガリの他に、南部の州「ムランビ」にも虐殺記念館があるが、今回訪れる時間が無かったため次回の目的としたい。

 

「千の丘の国」と呼ばれるほどの丘陵地が多いルワンダで、キガリの虐殺記念館はまさにその中の1つの丘にあった。

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虐殺記念館の門。内部の撮影は制限されていた。

 

入場料を払い、オーディオガイドを片手に中に入る。

 

最初は記念館内部ではなく、外にある「ROSE GARDEN」と呼ばれる庭園に行った。

 

ここは、虐殺により命を奪われたツチ族の「共同墓地・安らかに眠る場所」としての意味を持つ。

 

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庭園にあるモニュメント

 

そこで私たちは、泣き崩れているルワンダ人女性を目にした。

 

彼女は丁度記念館から出てきたところで、おそらく家族と思われる人に支えられてようやく歩けるといったような状態であった。

 

彼女がなぜ泣いていたのかは分からない。もしかしたら親族が虐殺の被害者であったのかもしれないし、その逆かもしれない。

 

私は、彼女の人生や泣いていた理由を邪推するのではなく、泣いていた事実を受け止めることにした。

 

その後、私たちは記念館の内部に入った。

 

キガリの虐殺記念館は、ムランビにある記念館と比べても「教育」「事実を後世に伝える」というニュアンスを持っているらしい。

 

なるほどその通り、ベルギーによる植民地政策、アフリカの優等生としての側面、経済不況から内戦への発展、そして虐殺というような形で、歴史に即した事実を1つ1つ知ることができた。

 

ルワンダ虐殺がどういった経緯で生じ、どのような顛末を辿ったかについてはわざわざアフリカに足を伸ばさなくてもわかる。

 

私が感じ、そこに確かにあったのは、「現地人の叫び」だ。

 

「昨日まで仲の良かった隣人が、突然殺人鬼となり殺しにくる。」

 

フランス軍は何1つ助けてくれない」「世界は私たちを見放した」

 

何の誇張もない「叫び」だった。

 

記念館に入る前に目にした女性と共に、この「叫び」は私に訴えかけてきた。

 

「自分が何を感じるのか」という興味でここを訪れた私は、この途方もない虐殺を「自分自身の言葉・感情で解釈すること」ができなかった。

 

「この事件を○○であると感じ、今後は△△するべきだ」というような余裕が無い。

 

簡単に言うと、同情や簡単な解釈が侮辱に当たってしまうと思った。

 

上の階に進むと、「Children's room」なるものがあった。

 

そこには、無数の子供達の写真があったのだが、全てが「虐殺によって命を奪われた子供」であった。

 

名前:○○○、5歳

性格:おとなしい

好きな食べ物:バナナ

死因:隣人による射殺

 

写真と共にあるのは、このようなプロフィールだった。

 

私はこのフロアに入る前に自分なりの心構えをしたつもりであったが、そんなものは木っ端微塵に吹き飛ばされた。

 

写真の子供達は、真っ直ぐな瞳で来場者を見ていた。

 

www.kgm.rw

 

 

5. アフリカの「奇跡」、ルワンダの「未来」。

 

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丘を歩く人。重そう。

 

 虐殺の後、ルワンダ愛国戦線の指導により驚くべき復興と成長をとげ、アフリカの「奇跡」とも称されるようになったルワンダ

 

一方で現政権の「独裁化」傾向に対する欧米諸国からの警鐘もある。

 

しかし、そもそも「欧米諸国」の「警鐘」なぞおよそ信じるに値するのか。

 

私が現地人の立場であったらそう考えると思う。

 

虐殺記念館の最後の展示は、「Final Stop - Short Film」であった。

 

そこでは、実際に虐殺を体験したルワンダ人のインタビューが載せられていた。

 

「私は隣人を殺した。」

 

フツ族を許せるか? それは分からない。」

 

「自分も同じ立場であったら同じことをしていたと思う。」

 

「今大切な事は、生き残った者がこの虐殺を伝え、学び、繰り返さないこと。」

 

いくら外部の欧米人や私がこれを理解・干渉しようとしても到達し得ないものがあると思う。

 

それは、個人・社会・民族として受け継がれていく固有の「実体験」だ。

 

ルワンダの未来は、ルワンダ人が創る。

 

これが、私がルワンダで得た実感であり、帰納的事実に近いものだ。

 

高邁な精神など語る知識も経験も権利もない。

 

しかし、持続的発展のためには、「片面的な国際協力」は存在するべきではない。

 

こう考えるに至った。

 

 

ルワンダに来れて良かった。ありがとう。

 

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コーヒー農園の人たちと。

 

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