2020年海外記#1 〜ルワンダで私も考えた〜
1.ルワンダとの出会い
私がルワンダに興味を持ったのは、確か高校3年の政経の授業だったと思う。
おそらく進研マーク模試やり直しの解説。
「...戦後の国際紛争についてはユーゴスラビア関係、チェチェン紛争とルワンダ内戦について覚えておくとテストで点が取れるぞー。じゃあ次の問題。」
センター試験でも、「国際紛争」は特筆して覚えておくべき分野ではないため、「ルワンダ」はプラスアルファの内容としてちょっと言及されただけだった。
その時何となく資料集を見ていると、目に入ったページ。「世界の民族問題」。
「1994年ルワンダ虐殺ではフツ族によって約100万人のツチ族が虐殺されるなど...」
その文章に書いてある事実に戦慄したことを覚えている。
私が生まれる2年前にアフリカではわずか100日間で100万人が殺されたという事実。
そしてそれが「テストの選択肢」の1つとして消化されかけていたという事。
これが、私とルワンダのファーストコンタクトだった。
2.分析対象としての「ルワンダ内戦」
その後大学に進学した私は、どちらかというと消極的な理由で国際政治を専門とした。
法学部であるが法律が苦手で、かといって何か別のことをやりたいわけでもない。「国際政治」は何だか響きがカッコいいし、最近海外に行く事も多いからこれを専門にしてみようかな。
そのくらいの気持ち。
そこで再びこの国と出会った。
「国際連合・国際法の限界」の側面として出てきた「ルワンダ内戦」。
スーダン・ソマリアらと並んで、「防げなかったアフリカの民族紛争のお話」としてまとめられていたルワンダを見て、私は高校時代に感じたものと近い違和感を覚えた。
このような内戦を、「分析対象」として机の上で消化するだけで自分は良いのだろうか?
調べるとルワンダは、内戦後「アフリカの奇跡」と呼ばれるほどの経済発展と治安回復を果たしているらしい。
是非足が動くうちに、ルワンダを訪れ、現地感覚を味わい自分が何を感じるか試したい。
こうして、「大学卒業までのルワンダ訪問」が目標となった。
3. ついに叶ったルワンダ訪問
ルワンダに行きたいという気持ちを持ちつつも、「アフリカ」という事で躊躇していたのだが、ちょうどその時に「アフリカに行きたい」という同じ気概のある後輩を見つけた。
名前をヒライワと言うその後輩は、エチオピアにコーヒーを飲みに行きたいと言っていた。
コーヒーのためにアフリカに行くことを決意した彼の(阿呆のように)真っ直ぐな心に私は感動し、僭越ながらその気持ちに乗っかる形で、ノリでアフリカ行きの航空券をとった。
もちろん学生なのでお金は無い。カ○ール航空やエ○レーツ航空で往復20万弱など持っての他だ。
私とヒライワはこれまでのLCC検索経験を駆使し、バンコクからムンバイ乗換でのルワンダ入国を目指した。
ムンバイ乗換のキツさは筆舌に尽くし難いものであったが、ここでは本旨と逸れるので割愛させて頂く。
とにもかくにも私達はルワンダに入国することができた。(前置きが長くて申し訳ない)
4.「キガリ虐殺記念館」〜虐殺の歴史を訪ねて〜
ルワンダでの目的は主に3つ。
・日本食レストラン「KISEKI」
・コンゴとの国境にあるコーヒーファーム
・ルワンダ虐殺に関する記念館訪問・現地感覚を知る。
この1つ1つに私が大きく心を動かされた事は言うまでもないが、一重に私の訥弁の成すところで、3つの思い出をうまく表すことができないことを鑑み、私が「ルワンダ」に興味を持った理由と直接重なる「ルワンダ虐殺」に関して書いていきたいと思う。
滞在中に私たちが訪れたのは、ルワンダの首都・キガリの虐殺記念館だった。
ルワンダにはキガリの他に、南部の州「ムランビ」にも虐殺記念館があるが、今回訪れる時間が無かったため次回の目的としたい。
「千の丘の国」と呼ばれるほどの丘陵地が多いルワンダで、キガリの虐殺記念館はまさにその中の1つの丘にあった。
入場料を払い、オーディオガイドを片手に中に入る。
最初は記念館内部ではなく、外にある「ROSE GARDEN」と呼ばれる庭園に行った。
ここは、虐殺により命を奪われたツチ族の「共同墓地・安らかに眠る場所」としての意味を持つ。
そこで私たちは、泣き崩れているルワンダ人女性を目にした。
彼女は丁度記念館から出てきたところで、おそらく家族と思われる人に支えられてようやく歩けるといったような状態であった。
彼女がなぜ泣いていたのかは分からない。もしかしたら親族が虐殺の被害者であったのかもしれないし、その逆かもしれない。
私は、彼女の人生や泣いていた理由を邪推するのではなく、泣いていた事実を受け止めることにした。
その後、私たちは記念館の内部に入った。
キガリの虐殺記念館は、ムランビにある記念館と比べても「教育」「事実を後世に伝える」というニュアンスを持っているらしい。
なるほどその通り、ベルギーによる植民地政策、アフリカの優等生としての側面、経済不況から内戦への発展、そして虐殺というような形で、歴史に即した事実を1つ1つ知ることができた。
ルワンダ虐殺がどういった経緯で生じ、どのような顛末を辿ったかについてはわざわざアフリカに足を伸ばさなくてもわかる。
私が感じ、そこに確かにあったのは、「現地人の叫び」だ。
「昨日まで仲の良かった隣人が、突然殺人鬼となり殺しにくる。」
「フランス軍は何1つ助けてくれない」「世界は私たちを見放した」
何の誇張もない「叫び」だった。
記念館に入る前に目にした女性と共に、この「叫び」は私に訴えかけてきた。
「自分が何を感じるのか」という興味でここを訪れた私は、この途方もない虐殺を「自分自身の言葉・感情で解釈すること」ができなかった。
「この事件を○○であると感じ、今後は△△するべきだ」というような余裕が無い。
簡単に言うと、同情や簡単な解釈が侮辱に当たってしまうと思った。
上の階に進むと、「Children's room」なるものがあった。
そこには、無数の子供達の写真があったのだが、全てが「虐殺によって命を奪われた子供」であった。
名前:○○○、5歳
性格:おとなしい
好きな食べ物:バナナ
死因:隣人による射殺
写真と共にあるのは、このようなプロフィールだった。
私はこのフロアに入る前に自分なりの心構えをしたつもりであったが、そんなものは木っ端微塵に吹き飛ばされた。
写真の子供達は、真っ直ぐな瞳で来場者を見ていた。
5. アフリカの「奇跡」、ルワンダの「未来」。
虐殺の後、ルワンダ愛国戦線の指導により驚くべき復興と成長をとげ、アフリカの「奇跡」とも称されるようになったルワンダ。
一方で現政権の「独裁化」傾向に対する欧米諸国からの警鐘もある。
しかし、そもそも「欧米諸国」の「警鐘」なぞおよそ信じるに値するのか。
私が現地人の立場であったらそう考えると思う。
虐殺記念館の最後の展示は、「Final Stop - Short Film」であった。
そこでは、実際に虐殺を体験したルワンダ人のインタビューが載せられていた。
「私は隣人を殺した。」
「フツ族を許せるか? それは分からない。」
「自分も同じ立場であったら同じことをしていたと思う。」
「今大切な事は、生き残った者がこの虐殺を伝え、学び、繰り返さないこと。」
いくら外部の欧米人や私がこれを理解・干渉しようとしても到達し得ないものがあると思う。
それは、個人・社会・民族として受け継がれていく固有の「実体験」だ。
これが、私がルワンダで得た実感であり、帰納的事実に近いものだ。
高邁な精神など語る知識も経験も権利もない。
しかし、持続的発展のためには、「片面的な国際協力」は存在するべきではない。
こう考えるに至った。
ルワンダに来れて良かった。ありがとう。
[END]
2019年海外記 #6 〜試練のフィリピン・集大成カンボジア編〜
11月末。サークルの同回3人でフィリピンに旅行の予定をたてた。
コムラの「普通の旅がしてぇ」との言葉に違わず、計画段階ではなんの変哲もない通常の旅だった。
...だが、普段は歓迎している「アイツ」が来ることがわかって状況は一変した。
台風。Typhoon。Bagyo。(タガログ語で台風の意。)
「離島の海で陽キャになろう」と言う根暗大学生のささやかな夢は打ち壊された。
航空券ももったいないので、とりあえずフィリピンに行って様子をみようと言うことに。
こうして文字通り「波乱」のフィリピン旅は幕を開けた。
~~~~~
1.離島・台風・ビーチ ~フィリピン・プエルトガレラ ~
関空からマニラに到着、1泊ののちにミンドロ島のプエルトガレラへ。
台風が来る前の海は穏やかで、どうにも危機感は生まれない。
我々は、台風の備えが心許ないであろうミンドロ島の宿泊を1泊に抑えて、とんぼ返りでマニラに戻る予定でいた。
そしてその夜、アパートメントの支配人に「1泊でマニラに帰る」旨を伝えると...
「The ferry will not work tomorrow. Maybe day after tomorrow.」
終わった。フェリーの欠航はすでに決まっていた。
こうして、陽キャを目指すはずだった旅はフィリピンの離島で大型台風を耐え忍ぶチャレンジへと変わった。
幸い、アパートメントには素晴らしい設備のキッチンがあったので我々は食事に困ることは無かった。
やがて台風が来る。島全体が停電する。
ホテルなどには自家発電機があったものの、数時間単位の計画停電があった。
あとはアパートメントの自室で酒を飲みながら耐えた。ひたすらに耐えた。
途中でクキが様々なトランプゲームのルールを我々に教えてくれたが、コムラの偏差値が足り無かった。
人間、選択肢のない退屈は非常に辛いものだと実感した。
停電でスマホもろくに触れないし何もすることがない。
幸いクキもコムラも面白い奴らだったので耐えた。
こうして約2日間、我々は台風に耐えた。
延泊最終日。台風は過ぎ去ったがまだフェリーは欠航だった。
我々は、ミンドロ島でも有数のビーチ、ホワイトビーチに行くことにした。
ホワイトビーチでは、クキが持ち前のアジアンテイストフェイスを生かして麻薬の売人に声をかけられまくっていた。
正直延泊して良かったと思った。ありがとうプエルトガレラ。
今回というか今年の旅全体を通して、「人が住んでいる限りなんとかなる」ということを実感できた。
最低限のリスクヘッジ、その「最低限」がどの程度なのかを学べた気がする。
とりあえずコムラ、お前はSIMカードをもってこい。
2.成長を感じたカンボジア・シェムリアップ
マニラでクキ・コムラと別れたのち、1人でそのままカンボジアのシェムリアップに向かった。
シェムリアップに行くのは1年ぶり2回目。大きな理由の1つは「アンコールワットマラソン」に参加することだった。
だんだん文章を書くのがしんどくなってきたので、イベントに関しては写真で振り返ることにしよう。
まずシェムリアップに到着して最初にしたことがこちら
今回の旅を通してだったが、「本能で動く奴」と一緒に旅をするとそいつがうらやましくなる。
自分のやりたいことに対して真っ直ぐだし、そのための多少の身内の迷惑は厭わない。
損得勘定を気にしてしまう自分は結局モブキャラだな、と思う。
その次がこれ。
タイ・カンボジア国境にあるプレアビヒア寺院。境界線と法の一般原則がポイントとなった国際法判例で有名。
ちなみに一緒に行ったグループの中に同じ大学の法学部出身弁護士がいて逆に肩身が狭くなった。あぁ、弁護士なろうかな。
そしてメインイベント。
アンコールワット国際ハーフマラソンに出場。お互い腹痛に悩まされた。
走ってる時はエントリーしたことをめちゃくちゃ後悔するのに、ゴールした瞬間もう一回挑戦したくなる不思議。今度はちゃんと調整してでたいね。
そして最後にここ。
日本のNPO法人が設立したブランド「SALASUSU」の工房にお邪魔した。
教育と労働を一体化して女性達と共に成長していくという理念に共感。
...とまあ今回のシェムリ滞在は大体こんな感じだった。
1年前、シェムリアップを初めて訪れたこともあり、それと今回を比較するとシェムリアップの変化だけでなく、自分の成長も感じることができた。
まずは英語力。これは著しく上がった訳ではないが、それでも昨年と比較すると一目瞭然だった。やはり語学は継続して使うことが何よりも大事だと実感した。
そしてメンタル。昨年は海外に対する気負い・過度な恐怖心があったが今年はそれが払拭された。真夜中のカンボジアの道端で友達が酔い潰れて死にそうになっていてもそれを鼻で笑うくらいの余裕はできた。
もう1つあげるとするならば、カンボジアを初めとする海外との関わり方。今年1年間ひたすらに経験を積み、自分で消化してきたことによって、いわゆる途上国「支援」や「相互利益」の考え方を得ることができた。答えが決まった訳ではないが、考え続けてきたという自信はある。
3.まとめ
今年1年の旅が終わった。
13ヵ国・23都市。約100日間・80万円。
もともと海外なんかこれっぽっちも興味が無かった自分がここまでこうなるとは思わなかった。
だが正直、自分の中ではある意味で当たり前の行動であった気がする。
自分の住んでいる世界について知るというのは、ごく普通のことだから。
2020年の3月まで、自分には時間がある。
できるだけ、できるだけ遠くに行きたい。
足が動くうちに。
2019年海外記 #5 〜タイ北部・ラオス望郷の旅〜
10月末、バンコクの法律事務所でインターンシップを終えた私はそのまま旅に出た。
東南アジア大陸部の中でもより内陸に位置するこの2つの都市。
古くは首都として栄えたチェンマイ。そして「世界一何も無い首都」と言われるヴィエンチャン。
これまで割と「観光地」や「都市」をメインに旅をしてきた自分が、一体何を感じるのか。
たっぷりの好奇心を持ってスワンナプームへと向かった。
〜〜〜〜〜
1.安寧を求めて・チェンマイ
バンコクから飛行機で約1時間。私は初めてチェンマイに降り立った。
空港からバスに乗り、チェンマイ中心部へと向かう。
チェンマイがどういうどこであるかは、私の過去記事を参考にしてくれると嬉しい。
端的に言うと、「街綺麗・人少ない・カフェお洒落・物価安い」最高の街だった。
近年タイへの観光客や在住外国人の数は爆発的に増加しているが、その多くはバンコクを拠点にしている。
最近ではバンコクの物価もそれほど「安い!」とは言えなくなってきた。
そんな中で訪れたチェンマイは、このように物質的側面でみても最高だった。
そしてそれ以上にチェンマイで感じたのは、「心の余裕」だ。
おそらくこれは、「日本人は物質的には豊かだが、発展途上国の人の方が心の豊かさがある〜(適当)。」と言ったような、優位性に塗り固められたポジショントークよりもある程度根拠のあるものだと思う。
「心の余裕」と言うのは、最低限の金銭的余裕があってこそ生まれるものだと私は考えている。
ここに、チェンマイの経済に関する情報がある。
www.chiangmai.th.emb-japan.go.jp
人口比で見ると、チェンマイは他の都市より相対的に「金銭的余裕」のある県だ。
市場の物売り達もあまりがめつい印象が無い。
そしてこのような現地民に加えて、中高年層がリタイア後の隠居地としてチェンマイに移住するパターンが最近多いらしい。
なんか、中高年ファランって優しそうやん?(突然の偏見)
こんな感じで、私は「心の余裕」を感じた。
チェンマイではずっと1人旅だったので、多くの現地民と話す機会があったが、本当にみんなバンコクを好きじゃ無かったのが印象的だった。
世界一貧富の差が激しく、経済成長の歪みが最も顕著だと言われているタイ。
その中でチェンマイは、「安息の地」としての役割を担っていくのではないだろうか。
2.ヴィエンチャン ~何も無い。だが、それが良い。~
チェンマイから一旦バンコクに戻り、ラオスの首都・ヴィエンチャンへと向かう。
バンコクからヴィエンチャンに飛ぶ。ヴィエンチャンに着いたのは深夜23時だった。
空港で現地通貨をゲットできないと言うトラブルがあったが、飛行機の席が隣だったロシア人と相乗りしてなんとかヴィエンチャン市内まで出ることができた。
そして翌朝、街を歩くと疑問に思うことがあった。
...本当に一国の首都なのだろうか?
あぁ、マジで本当に何も無いんだ。
宮崎で言うと都城より少し田舎くらい。(伝われ)
それはヴィエンチャンのランドマーク、「ラオス凱旋門」ことパトゥーサイに登って見てもわかる。
本当に清々しいほど何もない。
だが、だがそれが良いのだ。
街を歩くとのんびりした空気が充満していることがわかる。
そして結構話しかけられる。マッサージの営業では無く、普通に人間同士の会話を求めて。
久々に好奇心と言う感性で人と話すことができた。(なおラオ語)
また、ヴィエンチャンはメコン川を挟んでタイとの国境にある街である。
現金が不足しなおラオスでATMが使えなかった私は、泳いでタイまで行ってATMを使おうか画策していた。(嘘)
何度も言うとおり「何もない」首都なので、暇なときはずっとメコン川を眺めていた。
この「暇なとき」が許されるのがヴィエンチャンの良いとこだと思う。
日本は島国で、海外にいく手段のほとんどが「飛行機」であることも関係していると思うが、「点」の旅をする人が多い気がする。
だからせっかくの旅行、「観光地」を選ぶし、隙間無く予定をいれたいと感じる。
私はそれが苦手だ。
だから、ヴィエンチャンくらいの「何もない」街で「ぼんやり」を楽しむ。
最高の贅沢な気がした。
3.まとめ
結論から言うと、今年1番行って良かったなと思ったのがチェンマイ・ヴィエンチャンだった。
今年1年は「経験」に焦点をあて、割と無理して海外機会を作ることを心がけていた。
その中で、この2つの街にいくことができて「思考の整理」ができた。
今まで得た経験を自分なりに消化し、栄養にできた気がした。
昨日は「刺激的な東南アジア」を紹介したが、今日は全く逆の東南アジアを経験したことを書くことができた。
これだから東南アジアはやめられない。
END.
2019年海外記 #4 一般大学生マレーシア編
私の夏休みのスケジュールを紹介したい。
・8/12:ルクセンブルグ⇨パリ
・8/15:パリ⇨ブリュッセル
・8/28:関空⇨クアラルンプール
・9/2:クアラルンプール⇨関空
...明らかに「8/25:バンコク⇨関空」からの「8/28:関空⇨クアラルンプール」ムーブが無駄すぎる。。。
今回はそんなクアラルンプールの旅行記を書いていく。
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1.イスラーム芸術・モスクの落ち着き
マレーシアは国民の7割弱がムスリムである「イスラーム」国家である。
街のいたるとこにモスクがあり、1日5回の礼拝の際にはアザーンが流れる。
今年は、インド・トルコ・マレーシアなど割と多くのイスラーム系国家を訪れたせいか、「モスク」を見ると落ち着いた気分になる。
モスクは、ドーム状の屋根やアザーンを遠くまで響かせるための大きな塔など、外装の特徴に目が向くが、内装を見るとイスラームと他の宗教の違いがわかる。
それは、どこにも「像」が無いことだ。
例えばキリスト教の教会にはイエスやマリアの像・絵画があるし、仏教の寺院には仏像がある。
知識としては高校で習うようなものであるが、実際にモスクにいって見るとそれがはっきりわかるため非常に興味深かった。
ちなみにクアラルンプールなら「ピンクモスク」が近場のモスクの中で最も有名であるが、個人的には「ブルーモスク」にいくことをオススメする。
ブルーモスクでは、日本語の喋れるガイドがモスクの内部・非常に細かい部分まで説明をしてくれる。しかも無料で。
礼拝の体験などもできるのでぜひ行ってみて欲しい。
2.東南アジアに見る「トイレ」の立ち位置
私はこれまで日本に生まれたことに感謝したことが幾度もある。
治安が良いこと。パスポートが最強なこと。日本語の繊細さ。出汁の旨さ。
しかしやはりダントツで感謝しているのは「トイレの綺麗さ」だ。
今年私は東南アジア6カ国に滞在したが、意外にもトイレがあまり綺麗では無かったのがここ「マレーシア」だった。
最初は「トイレの美しさと経済規模はほぼ比例関係なのでは?」という仮説を立ててみたのだが、それは少し異なるように思える。
これを見ると、マレーシアはASEANでも経済成長の進んでいる国であることがわかる。
しかし実感であるが、トイレはタイやフィリピンの方が綺麗な気がするのだ。
国民性? 宗教? はたまた私の勘違い?
少なくとも、日本人におけるトイレの立ち位置とは大きく異なるようだ。
とりあえず、自分が潔癖症じゃなくて良かったと思う東南アジア旅である。
3.アパートメントで「住むように旅する」
ここ最近のマイブームなのだが、自分は海外で同じ都市に長期滞在する場合必ず、「アパートメント」に滞在するようにしている。
アパートメントとは客室の内部にキッチンがあり、冷蔵庫などの家電製品も設置されている滞在施設のことである。
イメージとしては、マンションの1室を貸し出すというような形だ。
日本であまり馴染みが無いように思えるが、それは民泊規制の影響があるように思える。
最近では日本の法規制も緩和する方針の改正が行われているが、やはり東南アジア含む諸外国と比べると速度感が無い。
今持ってる自分の財を効率的に活用する、白タクや民泊などの「シェアリングエコノミー」の荒波に日本がどう対応するかが課題である気がする。
...少し話が逸れたが、こういうアパートメントがマジでお得なのだ。
キッチンで自炊ができて、洗濯機もあり、ジムやプールも普通にあるのに価格はホテルの3分の2ほど。
個人的にホテルがアパートメントに勝っている部分が見つからないので、「宿泊施設」業界で今後どのような競争が行われていくのかが興味深い。
参考に、私が泊まったアパートメントを載せて置くので是非みて欲しい。
4.まとめ
マレーシア・クアラルンプールという1つの国・都市について書いてきて実感したのだが、やはり東南アジアって面白い。
今回のトピックも、まずは「宗教」という伝統的で社会科学・人文科学を横断する深い話、「トイレ」という日常の気付きから奥行き得るような論題、そして最近ホットな話題の「シェアリングエコノミー」。
これが、私が東南アジアを好きな理由の1つだ。
とにかくその地域で生きてるだけで刺激が多い。街を歩きたくなる。気付きたくなる。
皆さんも人生に迷ったら、東南アジアに来ると良いと思う。
END
2019年海外記 #3 〜トルコ・フランス・ベネルクス三国編〜
私のサークルには、旅好きが多い気がする。
同回生A・B・C:「俺たちバルト三国行ったぜ」
同回生D:「俺はコーカサス三国行ったぜ」
私:「じゃあ俺はベネルクス三国行くわ」
動機はこんな感じ。ついでにトルコとフランスにも行く事にした。
1.クレイジートラベラーの価値観に触れたトルコ
イスタンブール新空港でコムラという奴と合流。
バスに揺られて約40分、アヤソフィア・ブルーモスクに到着。
割といろんな国・街を訪れた中で、バスから降りて思わず感嘆の声をあげたのがここ、イスタンブール だった。
アジアとヨーロッパの境目であり、強大な帝国を誇ったこの地には洗練された美しさもあり、尚且つ中東特有の「砂埃感」もあって街を歩くだけで楽しむことができる。
また、イスタンブールも然る事乍ら、今回は旅を共にしたコムラが刺激の強い奴だった。
彼は基本的に本能で行動する人間だ。今までの旅の経験値は半端なく、それは彼のツイッターのプロフィールを見ても明らかだ。
そんな彼は、今回たった2日間一緒に行動しただけだったが色々面白い行動を取っていた。
例えば、こんだけ旅してるのに現金をポケットから頻繁に落とす。普通にSIM買えばいいのにわざわざハードモードを選択する。道端に落ちてるものを食べる、などだ。
イスタンブール郊外のスーパーの駐車場で、買ったばかりのパンとハムの晩飯を食べてる時に聞いた。「なぜそのような旅をするのか」と。
コムラ「俺は今あるお金を「旅での経験」に全振りしたい」
確かこんなことを行っていた気がする。
コムラ理論で行くと、15万円で普通の海外旅行を1回するより、5万円の貧乏旅を3回する方が好きらしい。
それはわかる。君は程度が極端に甚だしいんだよ。
2020年、どうやら彼史上最も死に近いチャレンジをするそう。
彼の今後に期待です。
2.悲しみのフランス・パリ編
イスタンブールからルクセンブルグを経由し、フランス・パリへ。
あの「パリ」なので流石にテンションは上がる。
とりあえずゲストハウスに荷物を置き、有名どころを回る。
大体テレビで見たことあるけど、それが目の前にリアルに現れるタイプの興奮。さすが世界一の観光都市。
と、街歩きをしていたのだが、段々看過できないほどの腹痛が私を襲うようになった。
私は世界一お腹が弱いことで有名なので、シンプルに調子が悪い日だな、と軽く思っていたのだが自体はそう簡単ではなかった。
ゲストハウスに帰りとりあえず便座に座る。
...踏ん張っても血しかでない。
とめどなく流れてくる大量の血。
フランス・パリで本気の絶望を覚えた。
病院に行こうか? パリだし日本人病院もありそうだ。
だが... めんどくさい。
私は質の良いフォロワーに託すことにした。
...こうして、私は血便を無かったことにして旅を続けることにした。
パリは二面性のある街だった。
先進国で文化・観光の中心地。華やかな側面。
移民・革命の血が流れる国民・社会に対する不満渦巻く側面。
ヨーロッパの中心に足を踏み入れ、その奥深さと複雑さの一角を見た。
次は健康な状態で行きたい。
3.多様性と法の下の自由 ~ベネルクス編(主にオランダ)~
フランスを挟んで、ルクセンブルグ・ベルギー・オランダと順番に旅をした。
それぞれの国で様々な経験ができたが、特にオランダについてここでは言及したい。
オランダに行った理由は主に2つ。
1つは「オランダ留学する後輩に会いに行くこと。」
そして、「オランダで活躍する日本人サッカー選手を応援に行くこと。」だ。
名前をナツノスケというその後輩は、私のオランダ渡航とほぼ同時期にオランダでの生活をスタートさせていた。
早速彼の住んでいる部屋にお邪魔する。
...マジで部屋には何も無かった。
ベッドも机も冷蔵庫もwifiも。
彼はちょうどその時誕生日だったらしく、異国の殺風景な一部屋で本当に寂しそうな誕生日を迎えたと嘆いていた。
それを聞き、盛大に(?)祝ってあげた。
残りの留学期間も頑張れ。
そしてナツノスケと2人で、2つ目の目的「海外サッカー」を観に行った。
カードは「AZ vs フローニンゲン」
AZには菅原由勢選手、フローニンゲンには堂安律選手・板倉滉選手が所属している。
非常に楽しみな試合だった。
...が、前日に試合会場が変わっていることに気づく。
どうして? 理由は「スタジアムがぶっ壊れた」からだ。
この壊れ方は今まで見たことが無い。急遽ハーグに向かうこととなった。
...こんな感じでなんだかんだあったけど、結局しっかりハーグ観光もできたし良かった。
そしてお目当ての日本人選手の登場。特に堂安律!正直彼を見にきたと言っても過言では無い。
...が、堂安の名前はスタメンに連なっていなかった。
堂安は頭痛で欠場らしい。残念だった。(ちなみにこの試合の後にPSV移籍が決定。頑張れ堂安律。)
日本人選手は、板倉がCBで先発フル出場、菅原も後半の途中からウイングで好機を演出した。
シンプルにサッカー観戦を楽しむことができた。
4.まとめ ~ここで「3.多様性と法の下の自由」を回収するよ~
こうして欧州縦断バックパックが終了した。
最後に訪れたオランダで、ある2つのものを見つけた。
オランダでは上記2つが「限定的」ではあるが法律で認められている。
「法の下の自由」というイメージを受けた。個人的な印象としては、「違法」にしたところで人間の嗜好・本能を過度に制御することはでき無いために、「合法」として国が管理した方が治安維持に繋がるという考えなのでは無いだろうかという感じ。
ともかくここではそれが公に許されているのだ。
そしてこのような店の前には、普通に家族連れが観光を楽しんでいたりする。
そのようなバックグラウンドを持たない自分にとって、非常に興味深い光景が広がっていた。
人間の感覚的部分・本能的部分について、もう一度考えようと思った。
2019年海外記 #2 〜インド精進・タイ慰安旅〜
5月上旬、京都、鴨川。
就職活動も一区切りついた文系大学生は、刺激に飢えていた。
デルタでサークル同回3人の飲み会。誰かがこう呟く。
「今からルーレット作って出た国にいくやつしようぜ。」
1人目。ヤマダとかいうやつ。
自分「旅慣れしてないし安パイなとこにしとくか」
候補は確か、平泉・新潟・北海道・タイ・スペイン・イギリス とかだったと思う。
タイが選ばれる。まあ初心者にはもってこいか。(旅慣れたアピール)
2人目。私の番。
ヤマダ「こいつの旅慣れ感ウザいしエジプトとインド入れとこうぜ」
と、まあこんな感じでろくに一人旅の経験もないままインドにいくことになった。
インドについて何も知らなかった私は、とりあえず「ガンジス川」と「タージマハル」を目標にインドに行くことにした。
今思えば、これが今年1年を左右する旅になったのかもしれない...
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1.ガンジス川の街・バラナシ
まあ一括りに言うとカオス。この世の怪しい・妖しい・訝しいものを全て放り込んで煮込んだような薫りのする街。
全てのヒンドゥー教徒の聖地。死に場所を求めてガンジスにくる。
ほとりには火葬場もあり、運び込まれた遺体がゆっくりと燃やされていく。
火葬場のすぐそばでは、子供達が水泳教室やクリケットを楽しんでいる。
そしてもはやガンジス川寝泊りしている人も多い。
生命とはなんぞや。人生とはなんぞや。
宗教感に疎い自分も、考えざるをえないような街だった。
2.タージマハルの街・アグラ
次に電車でアグラに向かった。
アグラで見ることのできた光景は上記の写真の通り。普通に泣きそうなくらい綺麗だった。また行きたいです。(小並感)
...ただ、アグラで1泊しようとしたのだがそこで事件は起きた。
端的に言うと、ゲストハウスに「エアコン」が無かったのだ。
「エアコンがないくらい大したことないやん!」と思うかもしれないがこれを見て欲しい。
雨季まであと1週間。太陽が最後の力を振り絞ったかのような暑さだった。
あまりの暑さに部屋の中でパニックになりそうだった私は、自分のベッドで無意識的に「座禅」を組んでいた。
いつの間にか焦りは収まり、心の平安を取り戻していた。
急迫した生命への恐怖に、ある意味で自分の宗教的才覚を見たのかもしれない(末期)
こうしてアグラから無事生還し、ニューデリーへと帰ったのだった。
3.危なかったニューデリー
ニューデリーについた私は、相変わらずめちゃくちゃ暑かったのでとりあえず予約していたゲストハウスに向かった。
...が、どこにもそんなゲストハウスは存在しない。
ゲストハウスがあるあたりの住所を彷徨っていると、複数のインド人に周りを取り囲まれた。
「Your guest house is closed.」
「So leave it to me. I'll find new for you.」
「No problem my friend!, follow me follow me!」
あぁ... そういう事か。
私は「おそらく詐欺だろう」と思いながらも、「最初から疑うのはよくない」と思い彼らについていくことにした。
案内されたのは、観光案内所と思われる受付の奥のオフィス。
私が入った瞬間扉が閉められた。
そしてゲストハウス・ホテルの説明を受けるが、、、
高い。高すぎる。3泊6万円からしかない。
断って部屋をでようとするも腕を掴まれる。
マイルドにいうと軟禁、ハードにいうと監禁だったのかもしれない。
大学3年間の筋トレの成果を生かし、半ば強引に5人くらいのインド人を払い退けてオフィスから出ることに成功した。
ニューデリーの記憶はこれしかない。
なぜなら、あまりの高温と大気汚染、このストレスに身体がやられてしまったからだ。
ありがとう、ニューデリー。私はニューデリーを人には絶対勧めないことにした。
たまたま自分がそういう人たちに遭遇しただけかもしれないけど。
4.まとめ
インドのあとタイにも行ったが、完全に慰安旅行だったので割愛。
インドは、やっぱりインドだった。
ここで書ききれない・書けないような出来事もたくさんあった。
外側の刺激だけでこんなにも楽しめる国もなかなかないと思う。
下により詳細な「感想」を投稿しているのでよかったらみてください。
https://www.facebook.com/100003956764969/posts/1455889424552936?d=n&sfns=mo
ではでは。
2019年海外記 #1 〜ベトナム逃避行〜
今年2019年の海外経験をここに記しておきたい。この記事は自分自身がそこで何を感じたかを記したものなので、もしハウツーを知りたい方がいたら直接聞いていただけるといいと思う。
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2019年4月中旬。
私は思わず旅に出た。
度重なる就活のストレスに耐えられなくなったからだ。
いや、正直「就活のストレスに耐えられない」なんてことはなかったが、「就活を理由にすれば『自分探し』などといった芳しい若人の営みを恥ずかしさもなくすることができる」と考えたからかもしれない。
目的地はベトナム。理由は単純、航空券がバカみたいに安いのだ。
1. ハノイ・ノイバイ空港で白タク詐欺に遭遇
ノイバイ空港でいきなり「白タク詐欺」に遭った。
タクシーに乗ったあとこれが詐欺であることに気づいた私は下ろしてくれと頼む。
しかし運転席と助手席にいた若い男2人は
「200万ドンよこせ」
と言って聞かない。
ベトナムにきたばかりの私は、200万ドンがどれほどのものなのか検討もつかない。
(現在のレートにすると約9000円)
とりあえず従順な態度を見せ、ATMに下ろしにいくふりをして走って逃げた。
割とこのブログが役にたった。ありがとうigaitaliagoさん。
結局空港バスを使いハノイ市街にたどり着いた。
2.ハノイの街・文化
聞いてはいたが、ハノイは夥しい数のバイクが縦横無尽に駆け巡る、「the 東南アジア」といったところ。
就活でひたすら「オーガナイズ」された面接、「コスモス」を求められていた自分にとって、この「カオス」はむしろありがたかった。
ハノイの街は「観光」というより所狭しと人の住居・生活圏が並ぶ首都と言った印象。
私は現地人の生活が見たかったので好都合だった。
現地の人々の生活に直に触れることで、そこの文化や日本との水準の違いに驚く。
ベトナムではいわゆる「犬を食べる」文化が残っているのだが、これに対する批判も多いと聞く。
生命倫理だかなんだとか。じゃあ牛は?豚は?鶏は?って話だ。
国際法一般原則の「内政不干渉」っぽいな〜と浅学ながら思ったのだが、他国の文化にどこまで口出せるのかってのは難しいと思う。(小並感)
その土地にはその土地の生活様式があり、それで普通に生活している。
それを外部の普遍的価値”のような”何かで批判することにはもっと慎重になるべきではないだろうか。
3.ベトナムの軍事史(軍事博物館・ホアロー収容所を訪ねて)
ベトナムを初めとする東南アジアの国々は欧米・日本による植民地化や戦争を繰り返した歴史を持っている。
ハノイにきた目的の1つは、軍事博物館と収容所を見るためだった。
○ベトナム軍事博物館
ベトナムは冷戦期にアメリカ・ソ連の代理戦争のような形で「ベトナム戦争」が勃発した。結果的にはソ連支援の北ベトナムがアメリカの支援を受ける南ベトナムを制圧して、「ベトナム社会主義国」を成立させることとなった。
この戦争では、テレビや新聞を初めとするメディアが初めて戦場に入りこみ、リアルタイムで戦況が伝わる初めての戦争であったため、アメリカ軍の枯葉剤作戦など戦争の「非人道的」な側面が顕著になったそう。
○ホアロー収容所
ホアロー収容所は、フランス植民地時代の19世紀末に「政治犯の収容・転向」を目的として使われた収容所。第二次世界大戦終結後、植民地開放を求めた抗仏戦争やその後のベトナム戦争でも使われた。
かつては「東南アジアで最も怖い観光地」に選ばれたことも。
世界の収容所の跡地でも、このホアロー収容所は特に「再現性」と「恐怖感」を与えるものであるという。
かつてアウシュビッツに訪れた際にも感じたが、やはりこの手の収容所跡で感じるのは特有の「気味の悪さ」「狂気」。
何より、本来ならば消し去りたいこの施設を「負の遺産」として保存し、後世の私たちにリアルを伝えてくれることに感謝した。
何事にも懐疑主義な私だが、「人命」これは普遍的価値として守るべきものであると実感した。
4.まとめ
就活中に見失ったと仮定した自分を探すための旅だったが、ベトナム・ハノイの魅力を感じる4日間だった。
東南アジア特有と言ってはアレだが、白タク詐欺に遭いかけたし、なんならホアンキエム湖ではバイタク詐欺(?)に遭って約5000円を払うことになった。
白タク詐欺は正直金額的に論外であるが、バイタクのおっちゃんは1時間以上かけてハノイを案内してくれた上、訪れた史跡・寺院について英語で説明してくれた。
正直あまり詐欺だとは思わなかったが、相場よりは大分高いらしい。
ちょっとこなれた旅行者は、「いくら値切りをしたか」「詐欺師を糾弾したか」を自慢げに話す人もいる。
だがそれは「日本人目線」で「詐欺」と思い込み、「悪いことをしている外国人」と認定して自分の「正義感」を満たしている場合もあるのではないだろうか。
私はその場合、相場というより、「自分がどのようなサービスを受けられるか」・「なぜこの人はこの金額を提示しているのか」を考えるようにしている。
相場より多少高くても、自分が納得すれば良いと思っている。
何が正解かはわからないけどね。